文武遊全道の大学時代 ~”自由”とは~

「”文武両道”だけではもったいない、遊んでもっと社会勉強しなくては!」と思った大学時代。そんな想いから「勉強してスポーツもして遊ぶ!」という意味でモットーとした造語が「文武遊全道」でした。

自衛隊を退職して大学受験予備校に入ったものの、入ってすぐの模試で「偏差値35」と記載された成績表。「偏差値?何それ、美味しいの?」から始まったこともあり、大学に受かるまでに2年かかりました。入学したのは23歳。高卒現役で入った同級生よりも4つ年とってました。

また、入学後は東京で一人暮らし。香川県の田舎の片隅で育ち、自衛隊時代は厳しい寮生活を余儀なくされ、勉強するしかなかった予備校寮を経た私にとって「深夜の2時に思い立って、歩いてコンビニに行ける」ということに『自由だー!!』(懐)と叫ばざるを得ない環境でもありました。

『文』

法学部に属していましたが、9.11テロの際に駐米大使を務めていた、柳井俊二先生に師事し安全保障論を専攻していました。今はわからないですが、当時、国内の大学で安全保障を学べる環境は、私が所属したゼミが唯一でした。平和学とか外交論とか国際関係論とかはありましたが。先生が外務省に勤めていたこと、大学院の先生のクラスに現役自衛官の方もいたことで、陸上自衛隊総合火力演習や海上自衛隊横須賀基地の見学にも行きました。ゼミ合宿では憲法9条改正の是非について、改憲派と護憲派の立場を前後半で入れ替える、チームディスカッションをやったり。

学術サークルにも属して、安全保障をテーマとしたゼミを主催したり、複数テーマで夜通しディスカッションを続ける終夜ゼミに参加してました。大学もだいたい3年生までにフルで単位を取れば卒業要件が満たされるところ、4年生の時も取れるところまで単位を取りました。「勉強して知る」という事が本当に楽しかった。

『武』

自衛隊時代にラグビーを始めました。「入隊当初に面倒をよく見てくれた先輩がラグビーやってて、カッコいい!モテそう!」というのが、ラグビーを始めたきっかけでしたが。。。入隊と同時に通信制高校に入ってたため、その枠で高校ラグビー大会にも自衛隊のチームで出場しており、18歳のときに神奈川県でベスト8まで行ったことはいい思い出です。

そんな経験もあったので、ラグビーサークルへ(23歳で体育会ラグビー部に入れるレベルではなかった)。同級生や先輩・後輩には、花園(高校ラグビー全国大会)経験者やその常連校出身だったり、地方の普通の高校出身の人もいて、とても楽しかったし、勉強になった。「サークル」という単位の中でどこまで”勝ち”にこだわるのか、個人ごとに異なるラグビーへの意識差に対し、どうやって落としどころを見出すか。ルールが複雑で見ていてもよくわからないスポーツに対して、どうやれば女子マネージャーに楽しんでもらえるのか。走って、タックルしてされて、跳んで、転んで、また走って。大好きなラグビーを楽しくできる環境が大学にあった事が嬉しかった。

「遊」

人並みには遊んでいました。大学を超えた交流会やNPOに関わったり、主催していたので、大学外の友人と遊ぶことも少なくなく。自衛隊時代の友人も国内各所にいたので、彼らを訪ねて国内旅行も。海外には、タイ、カンボジア、ネパール、エジプトとか。ペルーに行きたかったんですが、地球の裏側まで行くにはお金が足りませんでした。。翌日が休みの日には、深夜までアルバイトして、近くの居酒屋で朝まで飲んで、始発で移動して朝から空いている居酒屋で飲んだり。合コンもたくさんしました。経歴が経歴なだけに「いちろー君、面白そう☆」まではいきますが、決して”モテ”にはつながらなかったのが悔やまれる所です。六畳一間の自宅には実家から持ち込んだスーパーファミコン。10代後半の自衛隊時代から受験生時代はゲームをできる環境ではなかったので、DQ4,5,6とFF5,6、そしてマリカーはやりこみました。

「学生はお金は無いが時間はある」というのは本当にその通りで、何でもできる。スケジュール手帳が大学の講義以外に埋まっていく様子に充実感を覚えていましたし、そこでできた経験、知ったことも今の糧となっています。

冒頭にも「自由」と書きましたが、大学1年の頃「自由の牢獄」という考え方を学びました。極めてざっくり言うと「本当に”自由”になる(=選択肢が無限にある)と、人間はどの選択肢も選べずに、結果牢獄にいるのと同じような状態になる」という考え方です。メニューが”かけうどん”か”ぶっかけうどん”しかなければ注文は即決できますが、ファミレスに行くとどれを注文すればいいかかなり迷ってしまう、という状況です。そうはなりたくなかった。

「何でもできる」ということは「何もしないこともできる」。15歳で自衛隊に入って辞めて、大学受験に2年を要しただけに、できることは何でもやりたかった4年間でした。

中学や高校を出てから1度社会人として働いて、その中で気づいた自分に足りないものを補うために、大学に入って勉強していろいろな経験をする、という人生。結構アリな選択肢だと感じています。

そしてこの間。「防衛庁(現防衛省)に背広組で入りなおして、自衛隊を変えるんだ!」と意気込んで、公務員試験の勉強もずっと続けていたのですが、大学4年の春、国家公務員試験に不合格。涙を流すことになります。大学や大学外で社会を学んだことで、自衛隊を取り巻く環境のより深い複雑さや課題を知り、官僚制度の限界や国会議員の方々との話を通して、目標に揺らぎが生じていたことは否めませんでした。それでも、試験終了と同時に「ダメだ。。。」と悟った瞬間、「それでももしかしたら」と思っていたなかで「不合格」という事実がつきつけられた瞬間は辛かった。大学4年時点で26歳だったので、公務員試験浪人という選択肢は無かったため、夢が閉ざされた瞬間でした。

とはいえ、落ち込んでいる暇はなく、とにかく就職はしなければならない。そんな折に「PR(パブリックリレーションズ)」という世界に出会い、心惹かれ、PRパーソンとしての道を歩むことになりました。その話は、また別の機会にご紹介します。

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